私たちは思考が作り出す「評価」や「理由づけ」にどれほど振り回されていることでしょうか。

思考そのものはあなたの頭の中にのみ存在するものです。
人からはあなたの思考なんて見えはしません。
そして、それには実体がありません。

しかし、思考は「評価」するのみならず、その評価を「理由づけ」することによってますます事実であろうとします。
思考を事実として捉えるとき、それが単に頭の中で浮かび上がったものにしか過ぎないのに、
存在すると信じてしまうのです。

たとえば、あなたが人を「悪い」と評価した場合、
その人がどれだけ悪いことをしてきたのか、さまざまな記憶やイメージ、感情で理由づけてゆきます。

驚いたことに、

「(その人は)きっと私のことを嫌っているにちがいない」

と心の中まで推測して、さらに「悪い」という評価を付け加えて、

ますます「悪い人」が事実としてできあがるのです。

ちなみに「あの人は私のことを心の中でこう思っているにちがいない」と考えるとき、
それはその人が実際に考えていることではなく、
あなたが考えたことをその人に投影しているだけなのです。

つまり、その人を通じて自分の思考に反応しているにしか過ぎないのです。

「悪い人」が実体としてそこに存在するかのような錯覚をすると、

その人を攻撃したり、避けたり、無視したりなどさまざまなコントロールや回避の方策を講じることになるのです。

 

評価は気まぐれです。

気まぐれであるからこそ、人生や生活において「悪い人」というのは、望まなくてもやってくることになります。

そのたびに、コントロールや回避などをやっていたらあなたの人生は硬直化し、制限を受けるという代償を支払うことになるでしょう。

 

この世には「悪い人」というものは存在しません。

あなたが「悪い」と評価した人だけがいるのです。

 

あなたの評価が「単なる人」を「悪い人」に仕立て上げ、その人に対していろいろな方策を講じている姿を俯瞰すると、

とても滑稽なことであるのに気がつくでしょう。

 

同じことは善に対しても言えるでしょう。

そもそも善悪などは絶対的なものでなく相対的なものである上に、人類が滅んでしまうと地上には善悪という概念すらなくなってしまいます。

これは善悪そのものが事実として存在するものではなく、実体がないものだからです。

「ある状況において、あなたが善と評価する人」ならいますが、「善い人」というのはいないのです。

それは単に思考の中にしか存在しないものです。

思考と事実の区別ができないと、この世には「善人」と「悪人」がいるかのように信じてしまうのです。

偉い人、馬鹿な人、美しい人、醜い人、嫌な人、素晴らしい人・・・・。

こうして、あらゆる人、あらゆる事物を比較・評価し、分類し、ラベルを貼り、思考という色眼鏡で世界を見るのです。
そして思考という色眼鏡の世界が事実であると信じ、それに反応するのです。

自分で評価したものに翻弄されているだけなのです。

 

どうですか?
一人芝居を見ているような気がしませんか?

 

評価や理由づけ、ラベルを全て取り外して世界を見るとき、

策を弄することもなく、人生や生活での代償を支払うこともなく、

一人芝居をやめて、活き活きとした人生を歩むあなたがいることに気がつくでしょう。