0011

思考を事実だと思うこと、その意味が分かりません、とたまにメールなどで質問があります。

私たちはとても不思議な存在です。
それは、考えていることすら気がつかないからです。

それは、サングラスをかけて世界を見ていると、サンズラスをかけていることすら分からなくなるようなものに似ています。
そして、サングラスの色つきの世界が事実であると信じてしまうようなものです。

この世界には、単にものや出来事しかありません。
ものや出来事は、私たち人類がいてもいなくてもそこにあるモノです。
それらは観察可能なもので、「事実」と呼ばれます。

一方、私たちは「事実」に対し「意味」を与えます。
「意味」を与えるということは、もともと「事実」には「意味というものがないから」です。
この「意味」を与えること、そのものが思考の働きなのです。

「意味」を与えるとは、好き・嫌い、正しい・間違い、快・不快、大・小、優・劣などのようなものです。
これらは「事実」と違って目に見えません。
つまり観察不可能なものです。
当たり前のことですが、人類がいなくなると同時に「意味」はなくなります。

何よりも、「事実」は誰が見ても、それそのものであるのに対して、
「意味」は「事実」とは違って人それぞれなのです。

ある花を見て、きれいと思う人もいるでしょうし、汚いと思う人もいるかも知れません。
花という「事実」に対してきれい・汚いという「意味づけ」が行われたのです。

このように、「事実」と「意味」は全く別のものです。
繰り返し言いますが、「意味」は思考が作り出したもので「事実」ではありません。

ところが「意味」すらも「事実」と思い込む、こういった状態が

思考を事実だと信じる

ことなのです。

私たちは、サングラスをしていることすら忘れて、自分だけの色つき世界を眺めているだけなのです。

あなたが作り出した「意味」を「事実」に投影して見ているだけなのです。
あなたは「事実」を見ておらず、あなたの「意味」を見ているだけなのです。

まさに、あなたは起きていても夢を見ているようなものなのです。

サングラス(思考が作り出す意味)を外して世界を見ることが、ありのままの事実を見ることなのです。
そこには、意味があるものは何もありません。
単にものがあるという、むき出しの事実があるだけなのです。

悩みも不安も後悔も幸せもない世界なのです。

私たちは、悲しいことになかなかサングラスを外すことができません。
しかし、意識するとサングラスをしていることが分かります。
そして、しばらくの間でもサングラスを外すこともできますし、外したサングラスそのものを眺めることもできます。

これに気づき、これを体験することは大きなことなのです。

なぜなら、私たちは「事実」そのものを見ていないことを知ることであり、
「意味」は「事実」でないことを知りますから、「意味」にとらわれることがなくなるのです。

分かりやすく言うと、こういうことです。

嫌な人

という場合、「人」そのものには「嫌」という属性はありません。
生物として、有機体として、タンパク質と脂肪と炭水化物、ミネラルなどの塊がそこにあるだけです。

そして、あなたの思考が「嫌」という意味をつけると、
あたかも、その人に「嫌」という属性や性質があるかのように思えてくるのです。

もし、最初から、「嫌」という属性がその人にあるならば、
嫌と思う前は嫌だと思っていなかったことについて説明は出来ません。
ある時点で「嫌」だと意味づけて「嫌」になったに過ぎないのです。

「嫌」という思考が生み出す「意味」を信じてしまうと、その対象物そのものにその性質があるかのように思ってしまうのです。

「嫌な人」というものは、この世のどこにも生物として存在しません。

しかし、

「あなたが嫌だと意味づけした人」は存在します。

思考は単にあなたの頭の中に思い浮かぶものです。
思考そのものはなんの力もありませんし、好き勝手にいろいろ発生してきます。

単なる思考なのです。

サングラスは単なるサングラスにしか過ぎません。
どんなに見えにくい色をしていても、どんなに気味が悪い色をしていても、
世界はそんな色はしていません。
あなたのサングラスの色にしか過ぎないのです。

実は、あなたがサングラスをかけて世界を見ているだけ、
あなたのサングラスの色は「事実」でないこと、
サングラスは外すこともできること、

これらが分かるともっと心は自由になるでしょうね。